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美の巨人たち「貴方が選ぶ最も美しい肖像画」

TV東京系で放映中の美の巨人たち(大阪では毎週土曜日夜10時~)、今週から、今まで放映されたものの中からカテゴリーを決め、視聴者投票で選ばれたものを再び取り上げる、というテーマの番組内容が暫く続くようです。
で、最初のテーマが、「貴方が選ぶ最も美しい女性の肖像画」。
選ばれたのは、フェルメールの「真珠の耳飾の少女」でした。
映画の題材にもなったこの絵(今は映画『真珠の耳飾の少女』が有名になった所為かそのタイトルで呼ばれているようですが、以前は「青いターバンの少女」って呼ばれてましたよね?)、「北方のモナリザ」とも呼ばれているらしいのですが、今回の放送では、この絵に使われている光の表現についての考証と、この絵に描かれた「少女」が誰だったのかという謎に迫る、という内容になっていました。
そして、「真珠の耳飾の少女」は、実はある作品の本歌取りだったのではないか、と示唆され、その‘本歌’作品として示されたのが、グイド・レーニの「ベアトリーチェ・チェンチの肖像」だったのです。
しかし私には番組中の説明では少々納得できないものがありました。



美の巨人たち「貴方が選ぶ最も美しい肖像画」_a0009319_10153381.jpgベアトリーチェ・チェンチ。
この絵がTV画面に映った瞬間、私の心は彼女の虜になりました。
悲劇の少女、として描かれた彼女の、天使のような無垢な表情。
しかしそれは決して、生きた表情ではない、と思うんです。
彼女の心は既に神の元に召されているのでしょう。微かな狂気さえ含んだその眼差しは、苦痛に満ちた生から開放されることを、喜びさえしているかのように、私には感じられます。
「同時代のカラヴァッジオを燃え盛る太陽のような画家とするならばグイド・レーニは冷たい月のような画家だった」と称される彼が描いたのは、正に月の支配する世界、死の世界に入り行く少女の美しさ、だったんではないでしょうか。「一瞬の生を描き留めた」、とは、どうしても思えないのです。振り向くように顔をこちらに向けた彼女は、しかし、既に、彼女の行く先、画面の奥に黒く塗りこめた闇として描かれた彼岸に、溶け込むように同化しつつある、ように思うのです。「真珠の耳飾の少女」が、背後の闇から浮かび上がるような存在として描かれているのとはまったく逆に。
私には、どうしても、この絵に描かれた彼女が、「真珠の耳飾の少女」と同一人物であるとは思えない。二つの絵に描かれた少女は、構成・衣装の類似こそあれ、その性格は正反対のものなのではないか、と。「真珠の耳飾の少女」の、エロスさえ含んだ零れんばかりの生、いっそ生々しいとさえいえるその表情、それは、月の光に照らされるようなベアトリーチェ・チェンチの肖像の、正確な対称位置に存在するものなのではないか。もし、フェルメールが、ベアトリーチェ・チェンチをこの絵のモデルとしたのであれば、それは彼女の悲劇を描こうとしたからではない、彼女に再びの生を、少女に相応しい健康的な生と性の輝きを、与えようとしたからではないか、と思えてなりません。
端的に言うならば、グイドのベアトリーチェは‘死の喜び、死の美しさ’を、フェルメールの少女は‘生の喜び、生の美しさ’を、表現している、のではないかと。
映画『真珠の耳飾の少女』を観た今では、どうしてもフェルメールの絵に、エロスの香りを嗅ぎ取らずには居れない、のかもしれない私には、フェルメールが彼の希少な肖像画のモデルにベアトリーチェを選んだのは、むしろその生涯の余りにも残酷で強烈なエロスゆえ、だったのかも、とさえ思えてしまったり。
そう、ベアトリーチェ・チェンチの肖像が私の心を捉えて放さないのは、この無垢とも思える表情の下に、地獄のような事実が存在するから、なのかも知れません。
どうしてもバッドテイスト気味の解釈しか出来ない体質の私…
by radwynn | 2005-07-03 10:06 | TVonair
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